無限列車ラストラン
先日、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の見納めをしてきました。
この8ヶ月に及ぶロングランの終着をどの劇場で見届けようか迷ったんですが、以前から気になっていた立川シネマシティ シネマ・ツーの極音上映に決めました。
立川は学生の頃よく遊んだ馴染み深い街で、久しぶりに行きたかったというのもあります(だいぶお洒落タウンに変わりましたね)。
とはいえ、立川シネマシティには学生の頃はお世話になったことがなくて、これが初めての利用。当時もう大手シネコンの時代で、たぶん南大沢か府中のTOHOに行ってたかな。ミニシア系だと下北沢トリウッドとか、今は亡き渋谷のシネマライズにも行ったなあ。
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そんな立川シネマシティの入り口に着いた時点で、もう涙腺がやばくなりまして。いやいやいやいくらなんでも早いだろ自分。まだチケット発券もしてない。
こういう映画愛溢れる独立系の映画館も、煉獄さんは守り抜いたんだなって、思ったら…ううっ(涙)。鹿児島ミッテ10さんが、煉獄さんの誕生日に寄せて「煉獄さんと皆様の感染症対策のおかげで今日の映画館があります」と呟いてらしたのも思い出したりして…ううっ。
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目を潤ませつつ、シネマ・ツーのbスタジオに足を踏み入れると、この場内。
開演前から全体照明が落とされていて、各席に灯された小さな明かりだけなんです。暖かみのある蝋燭の炎のような明かりがずーっと並んでるのがそれは綺麗で、まるで聖堂のミサに来たみたいで、そういえば煉獄っていうのはカトリックの言葉だったなあと思い出したりもして、最後の乗車をここに決めてよかったなと思いました。
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上映時刻になって、まずは予告編。またここで涙腺がやばくなる。いやいやいや早いだろ自分。
この8ヶ月の間に何度予告編の映画が入れ替わったことか。無限列車の上映期間は本当に長かったんだなという思いと、それと、新作映画の予告にちゃんと封切りの日が示されてることが感慨深くて。
この8ヶ月、予告編を観るときつらかった。延期に次ぐ延期で公開日の数字が無い予告ばかりで、俳優さん達もこんな入魂の演技をしているのに無念だろうなとか、制作に関わった大勢の人達の心境はいかばかりかと考えてしまって。
その時期を越えて、ようやくスクリーンに公開日が燦然と輝いてるのを観て、この世にはこんなにたくさん面白そうな映画があるんだ!よかったなあ…よかったなあ…ううっ(涙)…ってなりました。コロナ禍の一番苦しい時期を煉獄さんが守り抜いた映画館で、こうして若い芽(新作)が育っていくのが眩しくて…もうこの時点で感無量です。
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本編が始まって、さて、極音上映とはどんなものなのか。
主題歌「炎」のアレンジとともに無限列車のヘッドランプがバン!と点るところ、あまりの迫力にビクゥ!って座席から数センチ浮きました。汽車の走行音がリアルすぎて逃げ出したいくらい。音響のことはさっぱりわからないですが、汽車の発する硬質な音と壮大なオーケストラの迫力がすごい。そのぶん、人の声の丸みみたいなものが少し足りないのかなという印象でした。
善逸の霹靂一閃は凄かった!IMAXもドルビーも観た中で、私的には過去最高の霹靂一閃でした。とにかく音のかっこよさで腰抜けるかと思いました。これが…極音上映…!!
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せっかくブログに書いてるんだし、もっと映画のストーリー自体の感想を述べたほうがいいんですかね。まとまる気がしないので控えてるんですけど。
観るたびに情緒が揺さぶられるシーンが変わるため感想をまとめにくいっていうのと、「上弦の…参…?」以降の記憶が毎度ない、というか、とても文章化できないからです。
実を言うと、この映画の後半で私は泣いたことがほとんどないです。うわあ。お前には人の心が無いのか!? と言われそうなカミングアウトしちゃってますね。
煉獄さんの戦闘シーンで終始涙が止まらなかったって感想をよく見かけますが、いや、だって、煉獄さんが諦めていないのに、私ごときが泣くわけにはいかないじゃないですか。
朝日が昇ってからのシーンは、宗教画を拝む気持ちで、ただただ神々しい、極限まで純度を高めた美しさを網膜と脳に焼き付けるために必死で観ています。目の表面を潤ませている場合ではない。
あと、単純に、とてもあたまがわるいので先の展開に思いを馳せたりできないんですよ。今の目の前のことにしか対応できない。バトルシーンは、よしっ!片腕を斬り飛ばしたぞ!ああっまた再生する!でも!まだここから!こんなことで煉獄さんは負けたりしないんだ!とか、終始小学生並みの語彙になりながら懸命に観ています。スクリーンから怒涛のごとく溢れ出し押し寄せてくる煉獄さんのかっこよさを、一片たりともこぼすことなく受け取ろうと必死で、泣くなんてところに情緒を割く余裕がないのです。
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私が涙腺やばくなるシーンは主に前半~中盤です。今回のラスト乗車では、冒頭の汽車の乗客の人達が映るだけでやばかった。
ああ、このお洒落なワンピースがお似合いのお嬢さんも、仲のいい老夫婦も、お母さんとお出かけが嬉しそうなおかっぱの女の子も、前途ある詰襟の学生さんの一団も、牛鍋弁当の空き箱を片づけてくれた客車係のお姉さん達も、みんなみんな死なずに済んだんだなって…思ったら…ううっ。
それと、今回は炭治郎、善逸、伊之助それぞれに涙腺やばくなるポイントがありました。
伊之助の「どいつもこいつも俺が助けてやるぜ!」って言うところ。善逸の「禰豆子ちゃんは俺が守る」と、炭治郎が「死ねない、誰も死なせたくない」って言うところ。かまぼこ達だけではそれぞれの願いを叶えることはできなかったんだなって、思ったら…涙が…。
煉獄さんはみんなの願いを叶えて、200人の命を守り抜いて、1人お空に行ってしまった。
「ほんとうにみんなの幸のためならば 僕のからだなんか百ぺん焼いてもかまわない」
無限列車編って、「銀河鉄道の夜」が根底にあると感じます。観るたびにこの有名な台詞を思い出しますね。
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いつもエンドロールでは、ああ尊い…尊い…と心で合掌するだけの燃えかすになってしまうため、記憶がおぼろげです。「炎」の流れる中、現れては消えていく4枚の煉獄さんの御姿をぼんやりと拝むだけになってしまいます。
4枚のうち、1枚目と4枚目が原作の扉絵ベースで、なおかつ曲中で現れるタイミングが原作の各話の内容に由来していることには気づいていました。
1枚目→歌詞「僕たちは燃え盛る旅の途中で出会い」(第54話「こんばんは煉獄さん」)
4枚目→歌詞「手を伸ばし抱き止めた激しい光の束」(第66話「黎明に散る」)
2、3枚目については、今回の乗車でようやく気づきました。多くの人はとっくに気づいてるんでしょうけど。
2枚目は、かつての笑顔の父と弟との遠い日の絵。これが現れるタイミングでの歌詞は「懐かしい思いに囚われたり 残酷な世界に泣き叫んで 大人になるほど増えて行く もう何一つだって失いたくない」
3枚目は、作中でも描かれた、母に言葉を託され抱きしめられる場面です。ここの歌詞は「悲しみに飲まれ落ちてしまえば 痛みを感じなくなるけれど 君の言葉 君の願い 僕は守りぬくと誓ったんだ」
この主題歌は、炭治郎の煉獄さんに向けた曲というふうによく語られますけど、絵の現れるタイミングによって煉獄さん自身の曲にもなる仕掛けになってるんですね…恐れ入りました。
煉獄さんって、いつも元気に笑っていて、すごく強くて、常人には到底その内面を窺い知れないほど崇高じゃないですか。作中でのモノローグも少ない。でもここで初めて煉獄さんの肉声、思いを聴くことができた気がして、胸がいっぱいになりました。
それにしても、この映画は本当に細部の細部まで完璧に作り込まれた作品だなと改めて。何度観ても新しい発見がありますね。
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エンドロールが終わって暗転し、ふっと、ほんの数秒だけ、場内が一面あの蝋燭のような明かりだけになったんですけど、それはもう綺麗でした。炎が天に舞い上がっていくエンディングの続きのようで、煉獄さんを送るこの映画の片隅に自分も参加させてもらえたようで、ラスト乗車をこの映画館にしてよかったなと心から思いました。
立川シネマシティさん、素晴らしい鑑賞の場をありがとうございました。
この映画の制作に携わった全ての方々、未知の感染症を前に誰もが自分の無力さに打ちひしがれていた時期に、こんな時だからこそ、良い映画を作ろう、がんばって作ればきっと観てもらえるはず、きっと誰かの希望の灯火になるはず、と信じてひたむきに作品を作り、世に送り出した方々に心から敬意を表します。皆様の思いは地球をぐるっと回って世界中の人に届き続けていますね。
そして、このコロナ禍にあって、図らずも作中の200人を遥かに超えて現実でも無数の人を救って下さった煉獄さんと、煉獄さんを生み出された原作者の吾峠先生に、心から感謝を捧げます。
よく、歴史が大きくうねる時には、その役割を果たすべき人物がおのずと現れるものだといいますが、煉獄さんとはそういう人だったのだろうと思います。
あなたが居てくれてよかった。あなたが愛される世界でよかった。こころからありがとうを言いたいです。